橋を渡る
Amazonの注文から配送してくれる配送業社や、置き配される包み紙やダンボールを、デジタル空間から現実世界へ架けられた橋を渡ってやって来る使者のように感じる時がある。
ライブやイベントがオンライン上で告知され、オンライン上のカレンダーにスケジュールされ、その日が来ると移動する我々もまた、デジタル空間と現実世界の間を駆け抜けるダンボールかもしれない。
「電池を買って来て」とLINEのメッセージ通知が来たことがスイッチになって、コンビニに移動している自分を、プログラムの一部のように感じる時がある。
けど、このプログラムは「電池を買ってきて」という指示を忘れることもあるし、面倒臭くて「また明日にしよう」とか言って、買ってこないこともある。なんてポンコツ。指示を忘れてしまって申し訳ない気持ちになって、明日は絶対に忘れないようにしようと心に誓ったりもする。
コンピューターによってできたデジタル空間は、インターネットによって、スマホによって、SNSによって、AIによって、駆け足で、賑やかでやかましくも、混沌としつつも洗練され、どんどん革新されてきた。
けど、家の周りの現実の景色をじろじろと眺めながら歩くと、思った以上に何も変わっていないことに気づく。
電線、思った以上にびっしりと空に張り巡らされている。電柱、いつからここに立っているのだろう。洗練やデザインからは遠い、なんとかして電気を各家々に届けようとする手段でしかない格好。何にも包まれず何にも隠されない。生の格好。
家、小学生の頃に歩いたこの道には、小学生の頃に見かけていたのと同じ姿のままの家が建っている。畑の横にある梅の木に、今年もまた同じ花が咲いている。
街路樹、ずっと私はここにいましたし、これからもずっとここにいますけども、というような顔をして立っている。彼らがいつからそこに居るか知らない。ごくたまに入れ替わっているのかもしれないし、全く入れ替わっていないのかもしれない。彼らがこの町に植えられた瞬間を知らない。
そうだった、現実ってこんなものなのだった。
一日中ヘッドセットを付けてVR空間で生活している人がいるという話を聞いた。その人にとっては現実世界の自分の身体の方が偽物で、仮想空間のアバターの身体の方が本物なのだそう。その人にとって、腹は減るし、疲れるし、毛や爪は伸びるし、排泄はするし、病気にもなる自分の身体は邪魔でしょうがないものなのかもしれないと思う。
現実は不便だし、不都合だし、簡単には置き換わらないなぁと思う。
どれだけデジタル空間が勢いよく発展したとして、現実には物がある。それは重かったり、固かったり、高いところにあったり、熱かったり、冷たかったり、水の中にあったり、寒かったり、痛かったりする。臭かったり、苦かったり、遠かったり、雨が降ったり、暗かったり、眩しかったり、うるさかったり、する。
物を動かすには力がいるし、我慢がいるし、場所がいるし、ルールもあるし、時間がかかるし、お金がかかるし、コピペで複製できないし、ボタン1つでアップデートできないし、スワイプで移動できないし。1人じゃほんの少しのことしかできないし。
この20年くらいで、時代が一気に動いたような気がしていたけれど、デジタル空間から顔を上げると、思った以上に現実の景色はあんまり変わっていないことに気づく。
それでいいかもね、それがいいかもね。
スピード感ややかましさに疲れたり、傷ついたりしたら、こっちの世界でのんびり生きるのがいいかもね。
以前までは、インターネット空間は現実世界の逃げ場と捉えられていたけど、今やインターネットの方が主戦場になっちゃって、現実の方が逃げ場になりそう。もうなってるか。
スピード感がちぐはぐな2つの空間でかき混ぜられながら、今日もまた橋を渡る。
