本能が見当たらない
サピエンス全史の本を読んで以降、自分の行動や妻の行動などを見て「この行動は原始時代の人間の生活や本能によるものなのかもしれない」と、原始と結びつけて考えるようになった。そうすると色々と合点がいくことが多い。
例えば妻がいちじくとか焼き芋をおいしそうに食べているのを見ていつも「そんなにおいしい食べものかなぁ」と思う。そこから男性に比べて女性が芋とか栗とかが好きがちなのは、原始時代に男性達が狩りに行っている間に、女性達は洞穴の我が家でそういった芋や木の実などを楽しんでいたのではないか、いたからではないか。という自論を持った。
30万年程あったと言われる狩猟生活で身についた本能が、ここ1万年くらいだけの農耕生活で簡単には変わらないはず。
原始に思いを巡らすと、答えっぽいものが見つかる。
朝、事務所に出勤して部屋に入ると大きな観葉植物が2つある、中くらいの植物も1つある。
自分で置いたのにも関わらず、彼らの存在に気づく朝と、そうでない朝がある。気づくのは、時間にも心にも余裕がある朝(毎日そうでありたい)。
なるべく週一で水をあげるようにしている。
冬は寒いので、冷たいままの水をあげると根が腐ってしまうらしい。
常温の水が欲しい。
どうしようかと考えて、鍋で水を温めることにした。温度が上がりすぎてもだめだから、ガスコンロに火をつけた後、常温を測るために鍋の水の中に手を入れたまま温める。水って思ったよりすごいスピードで温まることがわかった。自分の手が温度計になった気分。意外とこんなことは今まで生きてきて初めてやる行為だなぁと思う。料理でも理科の実験でもこんなシーンはなかった。
常温というよりもぬるま湯になってしまったから、冷たい水を足して調整する。鍋のまま植物達に水をあげる。ご飯あげてるみたい。
昔は、玄関先にたくさんプランターを置いて花を育てるおばちゃんや、庭の畑で毎日こつこつ野菜を育てていたじいちゃんの気持ちが全然わからなかった。今はわかる。部屋や庭に自然があると嬉しい。かわいい。一緒に生きている感じがする。世話をしていると、充実した気分になる。
歳をとる度に、若い頃にはわからなかった、年配の人の行動や感覚がだんだんとわかるようになってきている気がする。
毎週楽しみに聴いているラジオでパーソナリティの2人が、老人は体調のいい日の方がどんどん少なくなってくるから、体調のいい日がかけがえのない1日になり、その日を思い切り楽しもうとするようになるらしいという話をしていた。そうだとすると、例えばだんだんと耳が聞こえなくなってくると、音というものがかけがえのないものになってきて、今以上に、聞こえる音のことを愛おしく、大切に思ったりするようになるのだろうか──というような話をしていた。
すごくありそうだなと思う。歳を取るにつれて、子供の頃や若い頃にはわからなかった感覚がわかるというのは、経験を積み重ねてきたことによるものだと思っていたけど、その面はありつつ、逆にだんだんと感覚が衰えてきたり、何かを失ってくることで芽生えてくる新たな感覚や感情があるのかもしれない。人生のプラスではなくマイナスにより得られるものがあるのかもしれない。
朝に散歩しながら、それでまた、それで言うと原始時代に老人は何をしたり何を感じたりしていたのだろうかと考える。例えばこれから自分が80歳くらいの老人になった時、本能的には何を感じるのだろうか──。頭の中で、原始の中に答えを探しに行く。
探しに行った矢先、原始の中に、80歳の老人が見当たらない。
見当たらないことに気づいて、立ち止まる。
