エッセイ

選択肢を減らしてみると

りゅーまち

最近スマホを置いて家を出ることにはまっている。

歯を磨くときも、皿を洗うときも、健やかなるときも、病めるときも、Podcastやら動画やらSNSやら、目から耳から、一日中、隙あらば必要かどうかもわからない情報を無理やりに詰め込みすぎている。と感じて、デジタルデトックス的なことに興味が沸いてきた。

いつかスマホを置いて旅に出たり、スマホを置いて読書だけする合宿的なことができればと考えていたけど、スマホを置いて家から出て散歩でもすれば、日常の中でも簡単にデトックスできるのではと考えるに至った。

試しにスマホを家に置いたまま4歳の娘と公園に行ってみる。公園に行くだけなのに、ポケットにスマホがあるだけで無数の選択肢があったことに気づく。写真が撮れる。動画が撮れる。考えたことをメモできる。まだ返していないメッセージを返せる。記事が読める。SNSが見れる。読書もできる。買い物もできる。音楽が聴ける。Podcastも聴ける。動画も見れる。なんだってできてしまう。当たり前になってしまったけど、よくよく考えると親指をほんの少し動かすだけでそれが全部できてしまうなんてすごい、すごいやばい。

写真や動画を撮るのは良いとして、せっかく子供と遊びに来ているのに、SNSを見るのはいかがなものかと思うし、音楽を聴いたり動画を見たりすることも、もちろんやらない。

もちろんやらないけど、今まではポケットにスマホが入っているだけで、それらの無数の選択肢を無意識に、いや意識的に、選ばないように抑えこむエネルギーを使っていたことがわかる。

そして、写真や動画を撮る選択肢があると、このシーンを写真に残す?動画に残す?いや今は遊ぶことに集中する?という選択肢の中で揺れ動くことになる。

スマホを家に置いておけば、それで無数の選択肢を一括削除できる。

選択に迷わず、選択をしないようにするというストレスもなくなる、「遊ぶ」か「喋る」か「見る」か「考える」くらいしかできなくなる。遊んでいる4歳の表情がクリアによく見える、喋っている内容が頭によく入る、喋りながら考える、今日は空が青いねぇと気づく。

2人で遠回りして散歩して帰る。赤い実が成っている。黄色い花が咲いている。ママに持って帰ろうか。茶色い葉っぱが落ちている。緑の葉っぱが揺れている。光と影で、道がきらきらしているね。

7歳をスイミングに連れて行く前に、待ち時間に備えて鞄に本を入れる。こういう時は、いつも3冊くらいは本を入れる。けど、今日は1冊だけ入れて持っていく。本の選択肢も減らしてみる。なぜか嬉しい気持ち。選べるよりも、選べない方が嬉しいのだろうか。いや「選べないことを選んでいる」のが嬉しいのだろうか。

休日が終わり、平日の朝、スマホを置いて一人で散歩する。

選択肢が「考える」くらいしかなくなる。

冬の朝は寒い。寒いのに気持ちいい。望んでいない寒さは不快なのに、自ら飛び込む寒さは気持ちいいんだなぁと考える。それってサウナみたいだなぁと考える。

冬の朝は空気が澄んでいて、近所の景色もきらきらと光って見える。歩きながら、やっぱり冬は朝だなぁと考える。「冬は朝」だっけ?と、頭の中の辞書なのかノートなのか、メモなのかをめくる。あ、「冬はつとめて」だったなと思い出す。冬はつとめて、早朝、朝。本当にそう。1000年以上前の人に深く共感する。

「夏は夜」だし。「秋は夕暮れ」だし。それぞれの季節のそれぞれの時間帯の自分の気分を思い出して、重ねて、いやぁ、本当にそうだよね、わかるぅ、いいねと思う。

その後、「あけぼの」って何時だっけ?とわからなくなる。

「調べる」の選択肢がなかったから、冬の朝の景色と空気を吸い込みながら、歩く。



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